2016年8月25日木曜日

『鋼鉄番長の密室』の時代設定にまつわる謎

昔コミック『スパイラル』(城平京原作・水野英多作画)の小説版に『鋼鉄番長の密室』という本があった。城平京の小説の中では最も好きな作品である。

2002年発行なのでもはやネタバレなどは気にしないで話をすすめる。この多少メタなミステリの謎解きには不満はない。むしろ傑作であるとさえ思う。気になるのはこの作品の舞台になった年代である。

ご存知の通りこの小説の解決編では鋼鉄番長の発言に聖書からの引用が多用されていることが大きな役割を果たす。しかし気になることがある。「45年も前」(p13)に書かれた遺書はいったいどの聖書からの引用なのか?

聖書の日本語訳は多くある。一般によく使われた日本聖書協会による翻訳は明治元訳(1887年)、大正改訳(新約のみ。1917年)、明治元訳の旧約と大正改訳をあわせた通称・文語訳、口語訳(1955年)、共同訳(1978年)、新共同訳(1987年)。それから他の団体・個人による訳としては新改訳、フランシスコ会訳、バルバロ訳、岩波委員会訳……

とはいえ引用句を一つ一つ見ていけば鋼鉄番長の読んだ聖書が特定できるのではないだろうか?ただし作中作『番長の王国』(菅村軍平著)にある会話文は菅村氏による創作の可能性があるため、確実に出典を鋼鉄番長に遡りうるテクストとしては遺書を用いることとする。

比較するのは文語訳、口語訳、新共同訳でよかろう。共同訳は大変評判が悪くあまり使われなかったし、その他訳は言わずもがな。教会で使うようなものではない。もし鋼鉄番長の養父、グレゴリー・マクドナルド氏の宗派によっては変わった翻訳を使った可能性もあるが、アメリカ人のマクドナルド氏が正教会に属しているわけがないので正教会訳は無視できるし、軍人ということはエホバの証人であるはずがないので新世界訳も考えなくてよかろう。等々。

ちなみに歩が参照したのは新共同訳である。歩の発言では「コヘレトの言葉」とある(p190)が、これが新共同訳における訳語だからだ。コヘレトとはヘブライ語で伝道者の意味であり、そのため文語訳・口語訳では「伝道の書」と訳されている。

というわけで比較したのが以下である。


遺書より

p190
「全世界を手に入れても、仲間の命を失って何の得があるか」(マタイ16:26のもじり)
新共同訳:人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
口語訳:たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。
文語訳:人、全世界を贏くとも、己が生命を損せば、何の益あらん、又その生命の代に何を與へんや。

「この世のものすべてがたどる道」(ヨシュア23:14)
新共同訳:わたしは今、この世のすべての者がたどるべき道を行こうとしている。あなたたちは心を尽くし、魂を尽くしてわきまえ知らねばならない。あなたたちの神、主 があなたたちに約束されたすべての良いことは、何一つたがうことはなかった。何一つたがうことなく、すべてあなたたちに実現した。
口語訳:見よ、今日、わたしは世の人のみな行く道を行こうとする。あなたがたがみな、心のうちにまた、肝に銘じて知っているように、あなたがたの神、主が、あなた がたについて約束されたもろもろの良いことで、一つも欠けたものはなかった。みなあなたがたに臨んで、一つも欠けたものはなかった。
文語訳:視よ今日われは世人の皆ゆく途を行んとす汝ら一心一念に善く知るならん汝らの神ヱホバの汝らにつきて宣まひし諸の善事は一も缺る所なかりき皆なんぢらに臨みてその中一も缺たる者なきなり

「時代のしるし」(マタイ16:3)
新共同訳:朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。
口語訳:また明け方には『空が曇ってまっかだから、きょうは荒れだ』と言う。あなたがたは空の模様を見分けることを知りながら、時のしるしを見分けることができないのか。
文語訳:また朝には「そら赤くして曇る故に、今日は風雨ならん」と言ふ。なんぢら空の氣色を見分くることを知りて、時の徴を見分くること能はぬか。


参考までに会話文についても比較を載せる。

p191
「心は燃えても肉体は弱い」(マタイ26:41)
新共同訳:誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
口語訳:誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。
文語訳:誘惑に陷らぬやう、目を覺しかつ祈れ。實に心は熱すれども肉體よわきなり』

「ひとりよりもふたりが良い」(コヘレト4:9)
新共同訳:ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。
口語訳:ふたりはひとりにまさる。彼らはその労苦によって良い報いを得るからである。
文語訳:二人は一人に愈る其はその勞苦のために善報を得ればなり

「大きな石臼を首にかけている」(マタイ18:6)
新共同訳:「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。
口語訳:しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。
文語訳:されど我を信ずる此の小き者の一人を躓かする者は、寧ろ大なる碾臼を頸に懸けられ、海の深處に沈められんかた益なり。

「何事にも時がある」(コヘレト3:1)
新共同訳:何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
口語訳:天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。
文語訳:天が下の萬の事には期あり 萬の事務には時あり

「破壊する時、建てる時」(コヘレト3:3)
新共同訳:殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時
口語訳:殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり
文語訳:殺すに時あり醫すに時あり 毀つに時あり建るに時あり



以上、鋼鉄番長が読んだ聖書は新共同訳とみて間違いあるまい。すなわち鋼鉄番長の死は1987年以降である。さらに「そんな祈りがあちこちで行われている中で迎えた一月二十六日水曜日」(p104)が鋼鉄番長の命日であることをふまえて該当する年をカレンダーで探すと候補は1994年、2000年、2005年、2011年……となる。

さらに作中現在におけるグレゴリー・マクドナルド氏の年齢は「もう九十歳近い」(p152)。そして従軍中に「一緒に行動していた軍の七割を壊滅させてしまう」(p96)失態により「三十半ばで軍を辞めざるをえませんでした」(p97)というから、その事件の直後に退役したとしても従軍していたのは50年以上前である。

またマクドナルド氏は退役後落ちぶれた暮らしをしている中で三郎太(鋼鉄番長)が9歳のときにの母である荒木歌子と出会った(p97)。鋼鉄番長の死は17歳のときだから、マクドナルドと歌子の出会いは作中現在から45年と8年遡って53年前ということになり確かに計算は合う。

仮に鋼鉄番長の死を1994年とするとマクドナルド氏が従軍していたのは1980年代半ば以前。マクドナルド氏が同行していた軍に7割が壊滅するほどの被害が出たということは彼が失態を犯した戦争はちょっとした武力介入ではなく大規模な戦争であろう。この時期にアメリカが参加した大規模戦は……見当たらないのだ。

時代を後にずらせば湾岸戦争が1990年であり、これは比較的もっともらしい候補に思われる。湾岸戦争を軸に推測した結果が以下の流れである。

1990年:マクドナルド33歳、湾岸戦争に従軍。
1991年:マクドナルド34歳、湾岸戦争終結とともに退役。
1992年:マクドナルド35歳、荒木歌子に会う。このとき鋼鉄番長9歳。
1997年:マクドナルド40歳、歌子とアメリカに行く。鋼鉄番長14歳。
2000年:マクドナルド43歳。鋼鉄番長17歳で死す。
2045年:マクドナルド88歳。インタビューに応じる。作中現在?

マクドナルド氏が参加した戦争によってはもっと後にずれる可能性もあるのだが、湾岸戦争説にもとづく推定はぴったり辻褄が合うように思われる。

このようにして導かれた作中現在2045年説がその他作品の内容と矛盾しないか検証したいところだが、本編コミックが手元にないのが残念でならない。


参考文献
城平京著・水野英多イラスト 鋼鉄番長の密室(小説スパイラル : 推理の絆 2巻) 2002.4
聖書 新共同訳(日本聖書協会の聖書本文検索を使用)
聖書 口語訳(パブリックドメイン。Wikisourceより引用)
聖書 文語訳(パブリックドメイン。Wikisourceより引用)